恭賀新年 初春の御慶芽出度申納候
こんな馬鹿氣た事はない、人間の感情は或事物に接觸して起るのであるに、其感情を十日も二十日も前に表示するのは、全く虚僞の表情である、十二月初旬頃から發賣する雜誌の卷頭に「恭賀新年」だの「お芽出度」などの大文字を印刷したり、又官の奴等も「年賀郵便は十五日から」などと廣告して、所謂「活版刷」のエセ賀状を集めて居るが、一月一日に發すべきものを早く出して置いて、其間に死んだ者もあつた、新年が芽出度どころか、己れは節季にクタバツテ居るといふ有様、これは呆れが禮に來ると云ふより外はない
そこになると、昔の人は堅かつた、年始には裃で廻禮し、賀状は新年になつてから、筆硯を淸め若水を汲んで書いたものだ、「一年の計は元旦にあり」と云ふのに、新年早々ウソツキの挨拶をするやうに成つたので、世間は滔々と虚僞に流れるのである
[宮武外骨主筆『スコブル』第三号(大正六年新年号)の社説。(赤瀬川原平著『学術小説 外骨という人がいた!』)より引用]
これが載っているページをそのままコピーして、プリントゴッコで実際に年賀状にしてバラまいたのは、10年くらい前だったかなぁ…あの頃は、若かった(笑)。でも、70年以上も前にこんなことを書いていた人がいたのを知ったときは、嬉しかったものです。ウチの掲示板に投稿があった、多摩市永山の御嶽神社へ再訪。前回行った時はなかったが、情報通り、真新しい神使がちょこんと鎮座していた。なかなかふてぶてしい面構えをしているので、一応デジカメに収めておく。
御嶽神社だからてっきり神使は狼だと思いこんでいたので、あまり深く考えずに顔の写真だけを撮って帰ってきたのだが、後で見直したら、どうも狼とは言い切れないんじゃないか、という気がしてきた。顔が丸いのである。が、耳は犬のものではないしなあ。もちろん獅子ではないのだが。
尻尾とか身体的特徴をもっとよく観察してくればよかったな、と後悔。
「こま犬ライブラリ」に送ったら鑑定してもらえるのかな。
伊奈かっぺい氏の「努力は積み重ねるから、崩れるんです。」という名言を、今日初めて聞いた。目から鱗が落ちたような気がした。
うーむ。せめて半年前に聞いていれば。
これから人生訓にしよう。
42,981.0粁。
があるんだから、まずいもの食いたさがあってもいいじゃないか!
って、正直言うともうこりごりだけれど、なぜかあの「マウンテン」のミートの味を思い出してしまい*1、なんとなくまた食べてみたくなった。もっとも、皿の半分でも多過ぎるから、8分の1くらいで結構だ。いや、それでもまだ多いかな。
コンビニ業界、ラーメン業界では各地の有名店と提携したカップ麺を売り出しているくらいだから、名古屋ブームにも乗っかって「マウンテン」印のスパを売り出す所はないのかな、と、そんなことを考えてみた。
実際あっても食わんけど。
*1 濃厚なケチャップにカレーを混入した強烈な味と、それ以上に濃厚なガーリックの風味。それと吐き気。